HCJB ワールドラジオの歴史

クラレンス W. ジョーンズ(Clarence W. Jones)は、ポールレーダー(Paul Rader) によって設立された、シカゴ・ゴスペル礼拝堂の「音楽・青年とラジオ」の スタッフであった。 彼はWJBTにラジオ伝道の効果を見て、宣教ラジオを設立せよという神の求めを感じた。 1930年、彼はベネズエラ、コロンビア、パナマそしてキューバを訪れ、 許可を求めたが、全ての扉は閉じられていた。

シカゴに戻ってジョーンズは、 Christian & Missionary Alliance. クリスチャン・宣教師同盟の下に エクアドルのジャングルで開拓伝道を始めていたルーベン(Reuben)と グレイスラーソン(Grace Larson)に会った。 ルーベンは、彼と他のC&MA宣教師は彼らがやったようにエクアドルで 許可を得ることが出来るといった。 1931年のクリスマスに、ジョーンズは、200ワットの送信機を得、羊小屋を修理して、 世界で最初の宣教ラジオ放送局を作った。

創設者はJonesおよびLarsonの家族、それに加えて、D.S. and Irma ClarkとJ.D. and Ruth Clark (D.S.とJ.D.はブラジルからエクアドルへC&MAで来ていた兄弟)、 そしてthe Bible Societiesで働いていたPaul and Bernice Young。 HCJBラジオステーションの出力は伸びつづけ、1940年までにそれぞれ1,000ワット の3つの送信機を持つようになった。

その出発点から、放送は出来る限り直接に働きかけることがコンセプトだった。 こうして音による伝道、福音伝道者との出会い、そして顕著な広報イメージ が誕生した。 契約によってステーションは政治的には中庸であり、そして内部の制作には、常に 聖書の教えと聖書の原則の実践を中心とし、積極的なメッセージが与えられた。 多くの変革と政治的な変化の中で、それらのポリシーが我々をエクアドルでの 人々と政府に愛されるものとした。 放送はいつも対象とする国からの番組人によって編成された プログラムが強調された。

1939年、HCJB ワールドラジオは、キトーの北側に現在の不動産を購入した。 タワーとアンテナが地上に立てられた。 クラレンス・ムーアは、イリノイのペオリアにあるレトウニアプラントで、最初の 10,000ワット通信機を組み立てた。 1940年のイースターサンデーに、キトーでの最初の放送がおこなわれた。 その出力を一層効果的にするために、クラレンスは、現在世界的に有名となった キュービカルクアッドアンテナを発明した。

短波放送が世界の遠い隅まで届き初め、スペイン語と英語以外のプログラムも始まった。 第2次世界大戦中にNBCは、HCJBがそのニュースを再放送する契約をし、スペイン語の コメント付きでエクアドル地元民聴取者に流されるされるようになった。 それらからの収入は、現在も使用中の放送センターの建設を助けた。 1949年、HCJBはパナマのHOXOと パートナーとなった。HOXOはいまでも我々の世界規模の網の一部である。

50年代初頭、商品をキトーのマーケットに運ぶインディアンへの伝道のために、 小さなクリニックが創建さた。日曜学校と教会がその借屋で 成長していった。 1955年、HCJBの道路の反対側の土地が購入され、 ボザンデス病院 (Hospital Vozandes)が建設され、カナダからポールロバート博士が その病院長となった。 同時に隣接した不動産が購入され、そしてキト福音教会(I^Aquito Evalgelical Church)が建設された。 この教会は現在、地元の指導のもと、キト最大の教会の一つとなっている。 数年前、闘牛場でキャンペーンが開催されキトにおける2番目の福音的教会、 Divine Redeemer churchが設立された。 HCJBワールドラジオ宣教師によって他の教会もスタートしている。

アマゾンの熱帯雨林における宣教師たちが、その伝道団に対して そこで病院の仕事を始めるように求めた。そしてボザンデスシェル病院 (Hospital Vozandes-Shell) が、Ev Fuller博士の指導のもとに建設された。 ヘルスケア部門 は、これら二つの病院と更にコミュニティディベロップメント として、移動クリニック、都市クリニック、地方の健康施設などコミュニティ開発 プログラムを実施している。

HCJBワールドラジオは、1959年キトーでチャンネル4テレビ局を開始し、 1973年まで放送した。テレボザンデス(Televozandes) は、国営テレビネットワークのAsomavisionと提携し、番組の制作を続けた。

60年代にFMラジオが加えられ、我々の主送信設備は、キトーの東15マイルの ピホ(Pifo)に移動した。 1956年、25周年記念の年に、50,000ワットのバンドスイッチング短波送信機が 設置された。 それは我々の中の宣教師である技術者とこの国の技術者によって作られた。 1969年HCJBワールドラジオは、RCAによって作られた三つの100,000ワット短波送信機 を加えた。インディアのエルクハートにあるクラウンインターナショナルによって 提供された設備で、チームが作られ、HC500 (500,000ワット)が、70年代後半に 建設され、1981年に実際に放送に使用された。 エルクハートチームは100,000ワット送信機を引き続き製作し、それらはRCAに 取って代わり、さらにそれらは他の宣教放送局にも使われるようになった。 彼らは又、「スーツケースFMラジオ放送」を設計し組み立て、それらは多くの国々で パートナー局によって利用され、その地域でのラジオ放送局とレコードスタジオ の設立を助けた。

1976年にテキサスで、協力関係にある伝道機関 ワールドラジオネットワーク が設立された。これは、HCJBワールドラジオのプレジデントとして20年間 奉仕した後のDr. Ave Van Der Puyによって指導された。 このネットワークは、FMステーションを持ち、テキサスからアリゾナまでの アメリカメキシコ国境に沿って展開している。

このミッションの国際本部 は、1992年にマイアミからコロラドスプリングスに移動した。 トランスワールドラジオ との共同プロジェクトで、HCJBワールドラジオは、1993年に全てのラテンアメリカ の為にALAS衛星ネットワークを設立した。 東ヨーロッパにおける最初の 公式オフィスおよびスタジオのミッションは、1994年にウクライナのキエフで 設立された。

おそらく、我々の中で拡張を続ける最も大きな領域は、 我々がラジオプランティングとよぶものである。これは、地元の教会やクリスチャン グループとのパートナーシップで働き、そのコミュニティのためのクリスチャンラジオ の開発を助けるものである。さまざまな大きさや姿のプロジェクトが、 北アメリカ、南アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、前ソビエト連邦の各地、 北アフリカ、そして中東、中央、東南アジアで展開中である。

--compiled by Ben Cummings

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懐かしい「アンデスの声」の世界へようこそ キトからの放送を記念して
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