「短波の母」逝く
Sep 22, 2006

 9月も半ばを過ぎるとシカゴは朝晩の冷え込みがきびしい。17日明け方だった。久子の容態が急変した。前日は集まってきたまってきた息子家族や神奈川県海老名市の生家からかけつけてくれた姪などとめずらしくよくしゃべりよく笑っていた。私はその晩もいつものように夜中に2〜3時間おきに起きて久子の様子をチックしていた。すこし息づかいがあらいので処方薬を飲ませたが好転のきざしがみえないので家族全員にベッドのまわりに集まってもらった。私は久子の手をとっていたがその手がかすかに動いた。そして私の手を握りしめてきた。すべての力をふりしぼったようだった。そのあと大きく息をついて久子は地上の生涯を全うした。5時43分。目はとじたままだったが口元にはほほえみさえうかべていた。天使の翼に乗ってあまつ国へと駆けのぼっていったのだろう。

 久子は典型的な戦前の日本女性で「仕える」ことに徹していた。休みのない放送の仕事とレポートの返信で人差し指にはマメダコができるほどの仕事ぶりだった。同時に家庭のきりもりし、外国語の壁ものりこえ、近所の子供たちの世話までこなした。病床で私は久子の生前の労苦に何度お礼をくりけしたかわからない。言葉では言い切れないほどの負い目を感じていた。でも人生の夕暮れにそばにいて出来るかぎりの身の世話をさせてもらえたことは幸いだった。あるリスナーから「久子夫人は短波放送愛好者にとってもお母さんのような存在でした」というメールをもらった。子を愛し、子にも愛される母親、久子は「仕える」ことで愛の連鎖反応をおこす存在だった。いまわのきわに久子は強い力で私の手をにぎっのも久子の声なき声だったに違いない。「リスナーのために頑張って。私の分もこれから生きてね。」享年81歳。心不全。