山田耕嗣さん死去(8月19日)に想う

Aug 20, 2008

山田耕嗣さんは、アンデスの峰をこえて日本語放送が南米向けに第一声を放ったとき、日本から最初に受信レポートを送ってくださった方で、それ以来44年間にわたって、私とってかけがいのない貴重な方でした。

なかでも、1970年後半のBCLブームと呼ばれた未曾有の出来事は、日本の若者たちに海外放送リスニングを趣味の王様として定着させた山田さんの偉業であり、後世に語り伝えられるべき功績といえます。

「アンデスの声」の放送のためにも、遠く南米大陸赤道直下の国エクアドルからの日本語放送ということで、いろいろとお世話くださいました。当初、南米の日系移住者の慰めと励ましのための放送であることを理解され、放送用に自費で日本音楽のレコードなどを寄贈してくださったり、在留邦人の皆様でみてくださいと、「寅さんシリーズ」など日本のビデオを送ってくださりるので、山田さんからの郵便物はいつも家族の楽しみでした。

日本の聴取者へも積極的に「アンデスの声」をPRしてくださり、フジTVのドキュメント日本人国際篇「エクアドルにアンデスの声を見た」が放映されたときは、電話で方々へ知らせるのにダイヤルをまわす手が痛くなったそうです。そのほか、DXレポート・コンテスト、国際電話による聴取者参加生番組などに協力いただき、日本各地でひらかれたBCLリスナーとの交流のイベントにもよく誘ってくださいました。二十世紀とともに「アンデスの声」が放送終了したときには、聴取者のために写真記録リスナーズ・アルバムを編集出版する労をとってくださり、文字通りピンからキリまで「アンデスの声」のために親身になって尽くしてくださいました。山田さんのBCLにかける夢と情熱にいのちを賭けられた方でした。

千葉の新居が完成したときには、気候もよく、閑静なところだとよろこんでおられました。「いちど泊まりがけでお伺いしますから、これまでの歩みをたっぷりと聞かせてください」とお願いしていたのですが、山田さんの「今」を番組に残す機会を失ってしまい残念でなりません。しかし、「出会い」と「別れ」の間にお互いに交わした思い出の数々は、人生の奏でる余韻としていつまでも心にとどまることでしょう。あの暖かい、やさしい、そして豊かな情報と説得力のある声を、できれば天の果てから電波に乗せてこの地上に送りとどけて欲しいものです。

HCJB日本語放送担当
(米国シカゴ在住)
尾崎一夫